日本の神々、神社に鎮座する御祭神  

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今回、日本各地の神社に鎮座する神々と、その御祭神、神社の社格等について、ご紹介します。
日頃、全国各地に存在する神社の数はどれだけ在るだろうか、また其処に祀られている神々は、どんな神様なのか
社格はどうであったかと、初歩的な問い掛けから始って、少しづつ記述を進めることとなりました。
記載した神社については、意図的なものはなく日本全国、東北から沖縄に鎮座する神々を無差別に取り上げ、最終
的には、70社の神社(祀られている神々)となりました。全てが終わって確認してみると、自身が過去にご縁が
あって訪れ、参拝した神社も幾つか有り、当時を懐かしく振り返り帰ることが出来ました。

皆様も是非一度、参詣された神社など、想い出してはいかがでしょう。 又、お手元に御朱印帳があれば、紐解い
てみるのも楽しい想い出と出逢えるかも知れません。きっと心豊かな時間を過ごされる事と思います。 

記載中に「別表神社、官幣大社、式内社、二十二社、社格」など、記述がありますが、次頁で簡単に説明を加えて
おきます。 ご参照ください。

内容的には、古きこと故に理解し難いものがありますが、神社が関わる過去からの歴史的な背景・変遷を知るだけ
でも、有意義だと思い取り上げてみました。参向資料は神社庁関連資料、広辞苑、国史大辞典、他

神社の数は、平安初期の「延喜式神名帳」に載せられた神社が2861社で、実数はその5倍だといわれてい
ます。明治39年に約19万3千社、その後町村合併などにより、神社も合併されたものがあり、現在の総数は
おそらく、8万社前後であると推定されています。

   

記載神社一覧(70社)

01.澁川神社 02.月山神社 03.出羽神社 04.湯殿山神社 05.大物忌神社 06.上杉神社 07.鹽竈神社 08.竹駒神社 09.日光東照宮 10.香取神宮
11.鹿島神宮 12.明治神宫 13.日枝神社 14.神田明神 15.靖国神社 16.大國魂神社 17.鶴岡八幡宮 18.彌彦神社 19.諏訪大社 20.白山比咩大神
21.気比神社 22.三嶋大社 23.本宮浅間大社 24.浅間神社 25.久能山東照宮 26.小国神社   27.熱田神宮  28.津島神社  29.真清田神社 30.伊奈波神社
 
31.伊勢神宮  32.椿大神社  33.多度神社 34.橿原神宮 35.山上神社
36.春日大社 37.大神神社
38.那智大社
39.那智速玉大社 40.熊野本宮大社
41.神倉神社
42.賀茂別雷神社 43.下賀茂神社
44.平安神宮
45.八坂神社
46.松尾大社 47.北野天満宮
48.伏見稲荷大社 49.貴船神社
50.石清水八幡宮
51.住吉神社 52.阿倍野神社
53.坐摩神社 54.國魂神社
55.生田神社 56.湊川神社 57.長田神社 58.廣田神社 59.吉備津神社 60.金毘羅宮
61.厳島神社 62.出雲大社 63.筥崎宮  64.大宰府天宮 65.宇佐神宮 66.青島神社 67.宮崎神社 68.祐徳稲荷神社  69.鹿児島神社 70.波上宮  

                                       【 高皇産霊神を御祭神とする神社 30社】

 神宮 ・ 大社 ・ 神社 御祭神  その他付随事項 その他・特記事項 ・社格等
no.1
 
 澁川神社
   
  愛知県尾張旭市 









 
 ◇ 御祭神 高皇産霊神
(たかみむすびのかみ)  
 
 ◇ 七神合祀 
 ・大年神(おおとしがみ):豊作の守り神
 ・御食津神
(みけつかみ):食物を司るかみ
 ・庭高日神
(にはつひかみ):庭を照らす日の意、屋敷の神
 ・阿須波神(はすはのかみ):足元を守る神
 ・波比伎神(はひきのかみ):
屋敷の内外を守護する神
 ・大宮売神(おおみやめのかみ):
織物と酒造を司る神
 ・八重事代主神(やえことしろぬしのかみ):
宣託の神

 東海道 式内社731座・・・大52座・小679座
 尾張国 式内社121座
・・・大8座・小113座
 山田郡 式内社19座(小座)
 澁川神社は山田郡式内社19座(社)の一つ







no.2 

 出羽三山
   月山神社

 (がっさんじんじゃ)

 山形県東田川郡 



 




 ◇ 御祭神 月読命(つきよみ・つくよみ)

 神仏習合により月山神の本地仏は阿弥陀如来であると考え
 られるようになったが、八幡神の本地仏である阿弥陀如来
 が、月読命になぞらえられた月山神の本地仏となったのは
 東北的な特性であると言え、浄土教の浸透が阿弥陀如来信
 仰を月山に導いたと思われる
 室町時代まで月山の神は八幡大菩薩とされていた
 尚、月山の縁年は卯年とされ卯年に参拝すると、ご利益が
 上がると言われています。


 
 山形県の月山山頂(標高 1,984m)に鎮座する神社である。
 『延喜式神名帳』において名神大社とされた式内社で、明治
 の近代社格制度では東北地方唯一の官幣大社であった。
 古来から修験道を中心とした山岳信仰の場とされ、現在も多
 くの修験者や参拝者を集めている。
no.3

 出羽三山
   出羽神社


 山形県鶴岡市羽黒町 


 


 ◇ 御祭神 伊氐波神・稲倉魂命

 古来から修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も
 多くの修験者、参拝者を集めている。 山形県庄内地方に
 ひろがる月山・羽黒山・湯殿山を出羽三山と称し、当社に
 月山神社と湯殿山神社を併せた宗教法人として、出羽三山
 神社(三神合祭殿)が置かれている。


 出羽神社(いではじんじゃ)は山形県の羽黒山山頂に鎮座す
 る神社である。式内社で、旧社格は国幣小社。






no.4

 出羽三山
   湯殿山神社 


 山形県鶴岡市






 
 
 
 ◇ 御祭神
   ・大山祇神 ・大己貴命 ・少彦名命 

 御神体(古来より「問うな語るな」と伝えられているため
 詳細は不明。
 ・札所

 ・禊場(ここで下足し、紙人形にて禊をする。この過程を
  経ないと神社には入れない)

 ・湯殿山神社には他の神社にはある、本殿、拝殿は存在
  しない


 湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)は山形県鶴岡市田麦俣の
 湯殿山山腹に鎮座する神社である。
 旧社格は国幣小社、現在は別表神社
。 
no.5

 鳥海山大物忌神社
 (ちょうかいさん
  おおものいみじんじゃ)


 山形県飽海郡











 
 
 ◇ 御祭神

 ・大物忌大神(ちょうかいさん おおものいみじんじゃ)
 記紀には登場しない神で、謎が多い。『神祗 志料』
 や『大日本国一宮記』では、大物忌大 神と倉稲魂命が
 同一視されている。


 ・豊受姫命

 ・月読命 - 吹浦口之宮で祀られている

 鳥海山は、古代には国家の守護神として、又、古代末期
 からは、出羽国における山岳信仰の中心として、現在の
 山形県庄内地方や秋田県由利郡および横手盆地の諸地域
 など、周辺一帯の崇敬を集め特に近世以降は農耕神とし
 て、信仰されてきた。



 山形県飽海郡遊佐町にある神社。
 式内社(名神大社)、出羽国一宮旧社格は国幣中社で、現在
 は神社本庁の別表神社
no.6

 上杉神社 

 山形県米沢市














 
 
 
◇ 御祭神 
  
 ・上杉謙信上杉鷹山を合祀)

 上杉謙信が天正6年、越後春日山城で急死した際遺骸は
 城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が
 会津を経て、慶長6年に米沢へ移封されたのに合わせ
 謙信の祠堂も米沢に遷された。
 以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が
 交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離
 令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟
 所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転し
 た。更に城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀る為
 十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。
 この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めて
 いる。 併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀
 し山形県社、上杉神社とした。明治9年5月21日、現在
 の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。


 
 山形県米沢市にある神社。
 松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。
 旧社格は別格官幣社。
no.7

 志波彦神社・
 鹽竈神社(塩釜)
 (しわひこじんじゃ
 (しおがまじんじゃ)

 
宮城県塩釜市













 ◇ 御祭神

 ・志波彦神社

 ・志波彦大神
 ・鹽竈神社(塩釜神社)
   ・別宮:塩土老翁神 - 主祭神
   ・左宮:武甕槌神
   ・右宮:経津主神

 塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考
 えられる。神武天皇や山幸彦を導いたことから航海安全
 ・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。 また
 安産祈願の神でもある。





 
 宮城県塩竈市にある神社(二社が同一境内に鎮座)
 。志波彦神社は式内社(名神大社)
 。鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。
 両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表
 神社。

 ※ 鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・
   塩釜・塩釡) 神社の総本社である。


 元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志
 波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社鹽
 竈神社」とし1つの法人となっている。
 鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜
(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられて
 いる。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点
 となり、志波彦神社鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き御
 座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。
 東北開拓の守護神であり、東北地方で最も多くの初詣客が集
 まることでも知られる。

no.8

 竹駒神社
 
(たけこまじんじゃ) 

 宮城県岩沼市










 
 ◇ 御祭神
 
  主祭神
  ・倉稲魂神(うかのみたま・稲荷神

 ◇ 相殿
  ・保食神(うけもち)
  ・稚産霊神(わくむすひ)を祀る。

 「竹駒稲荷大神」とも呼ばれるこれら三柱の神々は人間
 生活の基礎である衣食住を守護する神々として崇敬され
 ている。



 宮城県岩沼市中心部にある稲荷神社である。旧社格は県社で
 第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。別名竹駒稲荷
 とも呼ばれ、旧称は武隈明神(たけくまみょうじん)日本三
 大稲荷の一つとされることがある。 陸奥国一宮の鹽竈神社
 と東北地方で一、二を争うほどの初詣客が訪れることで知ら
 れる。

 
no.9

 日光東照宮 

 栃木県日光市









 ◇ 御祭神 徳川家康公
  
 ◇ 相殿  豊臣秀吉公・源頼朝卿








 別格官幣社
 栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康
 を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。
 日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等
 を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別の為
 に「日光東照宮」と呼ばれることが多い。
 その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼ
 り得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を
 別当に据えて以来鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通
 じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景
 に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。
 

no.10

 香取神宮
 (かとりじんぐう)

 千葉県香取市





































 
 
◇ 御祭神

   経津主大神 (ふつぬしのおおかみ)
別名を伊波比主神・斎主神(いわいぬしのかみ)
斎之大人(いはひのうし)。

 香取神宮の主祭神はフツヌシ(経津主)として知られる。
 その出自について、日本書紀(720年)では一書として
 伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)を斬った際、剣から滴
 る血が固まってできた岩群がフツヌシの祖であるとして
 いる。また別の一書として、軻遇突智の血が岩群を染め
 磐裂神・根裂神(いわさく・ねさく)が生まれ、その御
 子の磐筒男神・磐筒女神(いわつつのお・いわつつのめ)
 がフツヌシを生んだとしている。
 その後日本書紀本文では、天孫降臨に先立つ葦原中国平
 定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲
 へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行なったという。
 なお、古事記ではフツヌシは登場しない。
 

 フツヌシと香取の関係については、日本書紀では一書と
 して「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり
 「檝取(楫取、かとり) = 香取」との関係が記されて
 いる。その後、古語拾遺(大同2年(807年)成立)
 「経津主神云々、今下総国香取神是也」、『延喜式』
 (延長5年(927年)完成)所収の春日祭の祝詞で「香
 取坐伊波比主命」と記されている。

 祭神の性格としては、フツヌシが国土平定に活躍したと
 いう書紀の説話から、「武神・軍神」と見なされている。
 名称の「フツ」についても、記紀に見える「フツノミタ
 マ(布都御魂、韴霊)」という神剣と同様、刀剣の鋭い
 様を表した言葉であるといわれる。軍神の認識を表すも
 のとしては、平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・
 香取・諏訪の宮」という歌が知られる。
 一方、「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古
 くは「航行を掌る神」として祀られたという見方もある。
 そのほか、フツヌシとイハヒヌシ(伊波比主・斎主)と
 いう異名称の扱いや原始祭祀氏族には不明な点が多く、
 香取神宮の創祀も含めて諸説がある。



 

 香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。
 式内社(名神大社)、下総国一宮。

 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。


 「神宮」の呼称
 『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮」と
   称したのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮
   の三社のみであった

 関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿
 嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の
 一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

 香取神宮は、常陸国一宮・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と
 古来深い関係にあり「鹿島・香取」と並び称される一対の存在
 にある。

 鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社で
 ある。その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたこと
 にある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・
 印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」と
 いう内海が広がっており、両宮はその入り口を扼する地勢学的
 重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の
 輸送基地として機能したと見られており、両宮はその拠点とさ
 れ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で
 祀られた。














no.11

 鹿島神宮

 茨城県鹿嶋市




















 ◇ 御祭神
   武甕槌大神
(たけみかつちのおおかみ、
           たけみかづちのおおかみ

 『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕
 槌神」と表記される。
  別名を「建布都神(たけふつのかみ)」
     「豊布都神(とよふつのかみ)」

 上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕
 槌/建御雷)として知られる。 その出自について『古事
 記』では、伊弉諾尊が 軻遇突智(かぐつち)の首を切り
 落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三
 神の内の一柱とする。(『日本書紀』ではここで、タケ
 ミカヅチの祖・ミカハヤヒが生まれたとする)。また、
 天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、天鳥船神
 (『古事記』)または経津主神(『日本書紀』)と共に
 活躍したという。 その後神武東征では、イワレビコ
 (神武天皇)に神剣(フツノミタマ)を授けた。
 但し『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及
 はなく、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかではない。


 
 鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市
 宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
  

 全国にある鹿島神社の総本社。
 千葉県香取市の香取神宮。茨城県神栖市の息栖神社と共に
 東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社で
 ある。
 













no.12

 明治神宫

 東京都渋谷区











 

 ◇ 御祭神
 
  明治天皇と昭憲皇太后

 明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られたが、
 東京に神宮を建設したいとの運動が、天皇を崇敬する東京
 市民(当時)から起こり、大正3年になると天皇に縁の深
 かったこの地への神宮建設が決定した
 造営は翌大正4年から開始され、全国から13,000人もの国
 民が、労力奉仕に自発的に参加した
 鎮座祭は大正9年11月1日に行われた。22万坪に及ぶ広大
 な神域は、江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸
 であり、寛永17年より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷とな
 っていたもので、この土地が明治7年、買い上げられて南
 豊島御料地となっていた



 明治神宮(めいじじんぐう)とは東京都渋谷区にある神社。
 明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。 初詣では大晦日から
 正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を
 集めることでも知られる。
 正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神
 』。 面積約70万平方メートルの境内は、その殆どが全国
 青年団の勤労奉仕により、造苑整備されたもので、現在の深
 い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。また本殿を中心
 に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷
 文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭
 神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至
 誠館等がある。

no.13

 日枝神社
 (ひえじんじゃ)

 東京都千代田区











 ◇ 御祭神 大山咋神(おほやまくひのかみ)

 ◇ 相殿 国常立神
(くにのとこたちのかみ)
      伊弉冉神(いざなみのかみ)
      足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
       
を祀る







 東京都千代田区にある神社。江戸三大祭の一つ、山王祭が行
 われる。旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。 

 明治元年11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定された。その
 後明治3年に神祇官直下から東京府管轄に移され、明治5年の
 官国幣社の選定時にも漏れ、そのまま東京府の府社となった。
 明治14年に氷川神社宮司で日枝神社の祠官を兼ねていた平山
 省斎が、皇城鎮護の神社が府社であっていいはずがないので
 官幣大社にしてほしいと願い出た。この時は官幣大社になら
 なかったが、東京府・務省の賛成を得て、明治15年1月9日に
 官幣中社になった。大正元年には官幣大社に昇格した。
 昭和20年の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年に再建され
 た。

no.14

 神田明神
  (神田神社)

 
  東京都千代田区









 ◇ 御祭神:「大黒様・・平将門」

 ・ 一ノ宮:大己貴命(大黒様)
               
(オオナムチノミコト)
 ・ 二ノ宮:少彦名命(恵比寿様)
      
          (スクナヒコナノミコト)
 ・ 三ノ宮:平将門命(将門様)
             (タイラノマサカドノミコト)
   の3柱を祀る。


 神田明神(かんだみょうじん)は、東京都千代田区外神田二
 丁目に鎮座する神社。正式名称「神田神社」。
 神田祭をおこなう神社として知られる。神田・日本橋・秋葉
 原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など、108か
 町会の総氏神である。旧社格は府社(明治3年まで准勅祭社)。
 現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の
 東京十社の一社である。



 
no.15

 靖国神社
 
  東京都千代田区
















 
 ◇ 御祭神

   護国の英霊 246万6千余柱














 靖国神社、やすくにじんじゃ)は東京都千代田区
 にある神社。九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人、
 軍属等を主な祭神として祀る。勅祭社で旧別格官幣社。

 元来は東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)という名称
 であったが、後に現社名靖国神社に改称された。
 創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が
 人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)
 が祭事を統括した(陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記す
 る)。昭和21年に国の管理を離れて東京都知事の認証により
 単立宗教法人となった
 単立宗教法人(単立神社)である為に神社本庁との包括関係
 には属していない。境内は桜の名所として知られる他大鳥居
 が東側に向いている、数少ない神社の一つでもある
 国家神道の代表的施設であり、日本の首相の公式参拝が行わ
 れ、時に国際問題化する。

 no.16

 
大國魂神社
 (おおくにたまじんじゃ

 東京都府中市































 
◇ 御祭神

 中殿
 ・大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ)
   主祭神 大国主命と同神とされる。

 ・御霊大神 (ごりょうおおかみ)
 ・国内諸神
 東殿
 ・一之宮:小野大神 - 小野神社(を指す)
 ・二之宮:小河大神 - 二宮神社(を指す)
 ・三之宮:氷川大神 - 氷川神社(を指す)
 西殿
 ・四之宮:秩父大神 - 秩父神社(を指す)
 ・五之宮:金佐奈大神 - 金鑚神社(を指す)
 ・六之宮:杉山大神 - 杉山神社(を指す)

 創立の初期には、創建日の5月5日に武蔵国中の神官が集ま
  り祈祷を行っていたと伝えられる。

 本殿の祭神は以下の通り。
  武蔵国の総社として、当社創建当時の武蔵国一之宮から、
  六之宮まで(通称:武州六社明神)を祀っている。







 
 大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は東京都府中市にある
 神社。武蔵国総社。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の
 別表神社。
 

 東京五社の一社。また、武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮
 までを祀るため、「六所宮」とも呼ばれる

 大化元年(645年)の 大化の改新時、武蔵の国府が社有地内
 に置かれて社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務
 を総轄する社となった。国司が国内社の奉幣巡拝・神事執行
 等の便により国内諸神を配祀し、武蔵総社の起源になった。
 このときに社号は「武蔵総社」となったという。

 その後、武蔵国内の著名の神、六所(6社の神)を奉祀して
 社号が「武蔵総社六所宮」と変わった。康平5年(1062年)
 前九年合戦平定の際に源頼義・義家父子が、欅の苗千本を
 寄進した。これは現在、国の天然記念物に指定されている
 「馬場大門のケヤキ並木」の起源である。又、神前にすもも
 を供物として供したことから、後年この日とされる7月20日
 に毎年「すもも祭り」が行われるようになった。
 寿永元年(1182年)、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、
 政子の安産の祈願が行われた。文治2年(1186年)源頼朝は
 武蔵守義信を奉行として社殿を造営した。
 貞永元年2月(1232年)、執権北条泰時の代で社殿の修造が
 行われた。

 天正18年(1590年)8月に徳川家康が江戸へ入城してからは
  武蔵国の総社として、社領500石が寄進されて社殿及びその
 他の造営が行われた。正保3年(1646年)10月、類焼により
 社殿が焼失。寛文7年(1667年)、徳川家綱の命により、
 久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。慶応年間(19世
 紀中半)には、檜皮葺が銅板葺に改められた。

 明治元年、勅祭社に準ぜられた。明治4年、社号を「大國魂
 神社」に改称。明治7年、近代社格制度において県社に列せ
 られた。明治18年、官幣小社とされた。平成23年、齋館の
 新築、随神門の改築、手水舎の移設が行われた。

no.17

 鶴岡八幡宮
(つるがおかはちまんぐう)
 神奈川県鎌倉市雪ノ下






 ◇ 御祭神 八幡神と総称される三体
 
  ・応神天皇 (おうじんてんのう) 第15代天皇

  ・比売神 (ひめがみ)

  ・神功皇后 (じんぐうこうごう)
      第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母


 鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市
 にある神社。 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神
 社。

 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の
 守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡
 社の中では知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入る
 ことがある。境内は国の史跡に指定されている。

no.18

 彌彦神社
 (いやひこじんじゃ)

  新潟県西蒲原郡弥彦村















 

 ◇ 御祭神

  
天香山命 (あめのかごやまのみこと)
 「天香語山命」とも表記。

 地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」
 などとも称される。弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が
 神廟にあたるとされる。
 尚、お祭神に関しては、大屋彦命・大彦命とする説もある。








 
 弥彦神社(いやひこじんじゃ)は、新潟県西蒲原郡弥彦村に
 ある神社。式内社(名神大社)、越後国一宮。
 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社
正式には
 「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、
 一般には「やひこ」と呼ばれる。

 尚、越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦
 山を神体山として祀る神社である。

 『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国
 開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった
 神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀
 (長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要
 文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えら
 れる武具などが社宝として展示されている。

 宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有
 名である。尚、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく
 4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊ま
 つりは特に賑わう。

no.19
  
 諏訪大社
 上社本宮
 下社秋宮

  長野県諏訪市





















 ◇ 御祭神 

   諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる
   ・建御名方神
   ・八坂刀売神(建御名方神のその妃)

 ・建御名方神(たけみなかたのかみ)
 古事記の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神
 の御子神として登場する。延喜式神名帳等には南方刀美神
 の表記も見られる。
 長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分
 霊も各地に鎮座する。

 ・八坂刀売神(やさかとめのかみ)
 神道の女神で、建御名方神の妃神である。 諏訪大社他に
 各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られ
 ない神であり、諏訪固有の神とも考えられる
 諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社
 の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝
 説がある。

 



 諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4ヶ所に
 ある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の 別表神社。 
 全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。
 旧称は諏訪神社。通称として「お諏訪さま」・「諏訪大明
 神」とも呼ばれる。
  

 諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に
 多い。鹿児島県では、祭神名の建御名方命から「南方神社
 (みなみかたじんじゃ)」としているものもある。

 諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神と
 その妃・八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神
 とする他「諏訪大神」と総称することもある。
 諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され
 各神社ではこれを神体として
 いる。また、中世には狩猟神事を執り行っていた事から
 狩猟・漁業を守護する神社としても崇拝を受ける
 これらは、諏訪大社の山神としての性格を表している。
 諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立て
 る御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が
 行われる。
 岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、
 諏訪信仰に分類される神社は、全国6位(2,616社)であ
 るという。

no.20

 白山比咩大神
 (しらやまひめじんじゃ)

 石川県白山市三宮町 



















 
 ◇ 御祭神 

   主祭神は以下の3柱。
   ・白山比咩大神
     菊理媛神(くくりひめのかみ)と同一神とされる。
   ・伊邪那岐尊
   ・伊弉冉尊

 石川県・岐阜県の県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に
 鎮座し、白山を神体山として祀る神社である。元は現在の
 古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し
 現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し
 山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」
 と呼ばれていた。
 境内には国宝の剣(銘 吉光)のほか
 重要文化財が多数伝えられている。

 白山本宮(白山比咩神社の当時の呼び名)は、平安時代中
 期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄え
 た。室町時代中期以降は、白山本宮が鎮座する味智郷
 (みちごう)でも富樫氏など武士の勢力が強くなり、白山
 七社の結び付きが弱まった。白山本宮は洪水や火災に度々
 遭って再建を重ね、文明12年の大火で全ての社寺が焼失し
 末社である三宮の鎮座地(現社地)に遷座した。
 
 

 白山比咩神社は、石川県白山市三宮町にある神社。
 式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁
 の別表神社。

 全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称とし
 て「白山(しらやま)さん」「白山権現」とも。

 創建は崇神天皇の時代とされる。元来は現在の古宮公園の場
 所に鎮座していた。
 養老2年、越前の修験僧・泰澄大師に
 よって白山の主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権
 現が奉祀された。平安時代中期(9世紀頃)になると、自然
 崇拝の山から修験者の山岳修行や、神仏習合思潮に彩られた
 修験の霊場へと変質を遂げるようになった。
 白山には加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山
 道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)
 が次第に調えられていった。文献史料上での確実な初出は、
 仁寿3年10月に従三位に加叙せられたという記事である
 ただし、承和7年に成立したと思われる『延喜式神名帳』で
 は、加賀国石川郡10座中の筆頭に載せられている。平安時
 代末期(11世紀末)、加賀国禅定道筋の白山系社堂(白山
 加賀馬場)の中心的存在であった当社は加賀国一宮とされ
 一国の神社を代表とする立場から勧農を目的とした国衙祭祀
 を担った。

 

no.21

 氣比神宮
 (けひじんぐう

 福井県敦賀市


















 


 ◇ 御祭神   

 祭神は次の7柱。本殿(本宮)に主祭神と2柱、本宮周囲の
 四社の宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る。

 本殿(本宮)
 ・伊奢沙別命 (いざさわけのみこと) - 主祭神。
     「気比大神」または「御食津大神」とも称される。

 ・仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
 ・神功皇后 (じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后。

 四社の宮
 ・東殿宮:日本武尊 (やまとたけるのみこと)
 ・総社宮:応神天皇 (おうじんてんのう) 第15代天皇。
 ・平殿宮:玉姫命 (たまひめのみこと、玉妃命)
     気比宮社記では神功皇后の妹・虚空津比売命とする。

 ・西殿宮:武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)


  
 氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は福井県敦賀市曙町に
  ある神社。式内社(名神大社)、越前国一宮。旧社格は官幣
  大社で、現在は神社本庁の別表神社。

  社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊
  跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。
  そして気比宮社記によれば仲哀天皇の時、神功皇后が三韓征
  伐出兵にあたって気比神に祈願をすると海神を祀るように神
  託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を
  得た。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連
  に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になると
  しているまたこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして三韓
  征伐の成功を再び神託したとも伝える。 その後大宝2年に
  文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功
  皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱
  を祀ったという。

 前述のように、古事記・日本書紀では仲哀天皇・神功皇后
  ・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら持統
  天皇6年まで、記載は見えず、7世紀中頃までは朝廷とのつな
  がりは薄かったとされる。そして7世紀後半頃、気比神の
  祭祀権は在地豪族から朝廷の手に移ったと考えられている。


no.22
 
 三嶋大社  

 静岡県三島市  






 ◇ 御祭神 

・大山祇命 (おおやまつみのみこと)
・積羽八重事代主神 (つみはやえことしろぬしのかみ)

 2柱は総称として「三嶋大神(みしまのおおかみ)」又は
 「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と称される。

 
 三嶋大社(みしまたいしゃ)は、静岡県三島市大宮町にある
 神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮・総社。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
 


 

no.23

 
富士山本宮浅間大社

 静岡県富士宮市 


















 
 ◇ 御祭神

  木花之佐久夜毘売命
   
(このはなのさくやひめのみこと)

 別称を「浅間大神 (あさまのおおかみ)」とする。
 神名は史書によっては「木花咲耶姫命」等とも記され
 るが、当社では『古事記』に載る表記を正式名に採用
 している。「木花」は桜のことといわれ、同書では美
 しい女性として表現されるほか、火中出産の説話が記
 されている。

 ◇ 配神
  ・瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
           木花之佐久夜毘売命の夫神。

  ・大山祇神 (おおやまづみのかみ)
           木花之佐久夜毘売命の父神。 

 富士山を神体山として祀る神社であり、境内は以下の
 2宮からなる。 本宮 - 富士山南麓(富士宮市街地)

      奥宮 - 富士山頂上


 式内社 名神大社、駿河国一宮旧社格は官幣大社で、現在は
  神社本庁の別表神社。

 当社は木花之佐久夜毘売命を祭神に祀っており、祭神にまつ
 わる桜を神木として、境内には約500本もの桜樹が、奉納され
 ている。又、古来より富士氏が大宮司を務め「日本三大宮司」
 の1つに数えられた。 古くより朝廷・武家からの崇敬が深
 かったほか、社地は大宮・村山口登山道の起点に位置する事
 もあり、古くより登山を行う修験者からの崇敬も受けていた。
 本宮の本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特
 の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。
 又、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「湧玉池」があり
 国の特別天然記念物に指定されている。










no.24

 浅間神社  
 
 
静岡県静岡市葵区 





























 
 静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に以下の
 三社が鎮座する。

 
 浅間神社 (あさまじんじゃ)
 ◇ 祭神:木之花咲耶姫命
        
(このはなのさくやひめのみこと)
 全国にある浅間神社の一社。延喜元年 醍醐天皇の勅願に
 より富士山本宮浅間大社より、 総 社神部神社の隣に勧請
 され、以来冨士新宮として 崇敬されてきた。


 神部神社 (かんべじんじゃ)
 ◇ 祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと)
              駿河国開拓の祖神

 崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられる。
  延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定 められて
 からは、国司崇敬の神社となり、平安時代 より駿河国の
 総社とされた


 大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)
 ◇ 祭神:大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)
    倉稲魂神・大年神の母神で、神大市比売命を指す


 応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、
 元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であ
 った。古くは「奈古屋神社」と称された。延喜式内小社で
 祈年の国幣に預った。

 三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代迄は
 それぞれ別の社家が奉仕してきた。明治21年、三社別々
 に国幣小社に昇格した。 戦後は神社本庁の別表神社と
 なった。現在は一つの法人格となっている。
 

 
 静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)は、静岡県静岡
 市葵区にある神社。通称「おせんげんさま」。

 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなり、「静岡
 浅間神社」は総称。三社はいずれも独立の神社として祭祀が
 行われている。

 式内社二社(神部神社・大歳御祖神社)、駿河国総社(神部
 神社)。三社合わせて旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁
 の別表神社。

 社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗
 なもので、計26棟が国の重要文化財に指定されている。
 この社殿群は文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の
 巨費を投じて建造されたもので、信州諏訪の立川和四郎他
 門弟により彫刻された花鳥霊獣類は繊細を極めている。
 特に、重層な大拝殿は高さ25メートルで木造神社建築とし
 ては、出雲大社本殿(約24メートル)より高く、将に日本一
 の威容を誇る。






 
no.25

 
久能山東照宮

 静岡県静岡市駿河区 






  
 ◇ 主祭神

   徳川家康(東照大権現)




 

 晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年に死去した後、遺命
 によって、この地に埋葬された。 江戸時代には20年に一度
 明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の
 塗り替えが行われており、近年では平成18年に社殿の塗り替
 えが完了した。平成22年12月に本殿石の間、拝殿が国宝に指
 定された。平成27年には鎮座400年を迎えるため、様々な催
 し物が企画、開催されている。

 社格:別各官幣社 

no.26
 
 
小国神社 

 
静岡県周智郡森町









 


 ◇ 御祭神

  大己貴命 (おおなむちのみこと)

 本宮山の南側の山麓に鎮座する。「小国」という社名は
 出雲の「大国」に対する遠江の美称であるとしている。








 
 静岡県周智郡森町にある神社。式内社、遠江国一宮旧社格は
 国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
  

 『延喜式神名帳』では小社に列している。皇族や武将の信仰
 が篤く、遠江国一宮として崇敬を受けた。当社を一宮として
 記載する史料の最初は、1235年の「当国鎮守小国一宮」とい
 う記述である。江戸時代には「一宮神社」と称していた。
 中世以降、朝廷の衰退により勅使が廃れたが、室町時代戦国
 時代を通じて祭祀が途断えることはなかった。
 元亀3年、甲斐の武田信玄が遠江に侵攻した際、当社神職は
 徳川家康に味方した。 天正3年徳川家康が社殿を再建し江戸
 時代に入ってからも歴代の将軍が、社殿の造営や営繕、社領
 の寄進を行っている。明治5年に県社に列格し、翌明治6年に
 は国幣小社に昇格した。

no.27 

 
熱田神宮 

 
愛知県名古屋市

























 
 

 ◇ 御祭神

 主祭神
 熱田大神 (あつたのおおかみ)
 三種の神器の1つ・草薙神剣(くさなぎのみつるぎ、
  草薙剣・天叢雲剣とも)を神体とする天照大神を指すと
 している


 相殿神
  ・天照大神 (あまてらすおおみかみ)
  ・素盞嗚尊 (すさのおのみこと)
  ・日本武尊 (やまとたけるのみこと)
  ・宮簀媛命 (みやすひめのみこと)
  ・建稲種命 (たけいなだねのみこと)

 

 
熱田神宮は、愛知県名古屋市にある神社。
 式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、
 現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。

 熱田大神とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の
 熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代
 ・御神体としてよらせられる天照大神のことであるとしてい
 る。しかし、創建の経緯などからすると、日本武尊と非常に
 かかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊の事である
 とする説も根強い。

 相殿には、天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲
 種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。
 素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの
 尾の中から天叢雲剣を発見し、天照大神に献上した。
 天照大神は、その天叢雲剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(にに
 ぎのみこと)に授けた。日本武尊は、天叢雲剣(草薙剣)を
 持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに
 預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。
 建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将とし
 て従軍した。

 第12代景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張
 へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の
 娘・宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ留め置いた。
 日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛
 命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言
 われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に置か
 れているとされ、伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄
 えることとなった。

no.28
 
 
津島神社 

 
愛知県津島市





 



















 
 ◇ 御祭神

  ・主祭神 建速須佐之男命

 ◇ 相殿
  
 ・大穴牟遅命(大国主) 

 東海地方を拠点とした織田氏は当社を氏神として崇敬し
 社殿の造営などに尽力した。 織田氏の家紋の木瓜紋は
 当社の神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を
 修造する等、当社を厚く保護した。 江戸時代には尾張
 藩主より1293石の神領を認められ、後に幕府公認の朱印
 地となった。
 厄除けの神とされる牛頭天王を祀る事から、東海地方や
 東日本を中心に信仰を集め、各地に分社が作られた。

 明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる
 仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし社名
 から牛頭天王の名を外して津島神社とした。
 明治6年に県社に列格し大正15年に国幣小社に昇格した。
  神社のすぐそばに天王川公園がある。公園の中央には
 楕円形の池があるが、これは江戸時代まで、町の中を流
 れていた佐屋川が、木曽三川分流工事のさい、洪水対策
 で廃川となり、その支流・天王川もせき止められたもの
 である。牛頭天王は排斥されたが、神社の祭りは、尾張
 津島天王祭として、今も「天王」の名が残っている。

 

 津島神社(つしまじんじゃ)は、愛知県津島市にある神社で
 ある。社格は国幣小社で、現在は神社本庁包括の別表神社。

 建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿
 に祀る。当社は東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神
 社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という。

 中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称
 し、牛頭天王を祭神としていた。

 東海道名所図会に、津島牛頭天王と記載される。

 社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡った
 ときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀
 元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天
 皇元年旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。
 弘仁9年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本
 総社の称号を贈られ、正暦年間には一条天皇より、天王社の
 号を贈られたと伝えられる。しかし、延喜式神名帳には記載
 されておらず、国史にも現れない。年代が明確な史料では、
 承安5年の名古屋七寺蔵・大般若経奥書に名前が見えるのが
 最初であり、実際には藤原摂関時代の創建と見られる。国内
 神名帳考異稿(元本・貞治年本国帳;南北朝)には、貞治本
 にはその名前が見えず、元亀本他に依拠するとする。正一位
 上 津嶋牛頭天王。





no.29

 真清田神社 
 (ますみだじんじゃ)

 愛知県一宮市 

















 
 

 ◇ 御祭神
  • 天火明命 (あめのほあかりのみこと)

 天火明命は、神武天皇33年にこの地を「尾張」と名づけ
 開拓した天香山命の父神である。天香山命の子孫が尾張
 氏とされ、天火明命は尾張氏の祖神とされる。
 尚、祭神については古くから諸説ある。

 尾張氏の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に祖神である
 天火明命を祀ったのが起源と考えられる。尾張氏は当社
 を中心に開拓を進め、後に一族の名が国名になり、日本
 武尊の妃として宮簀媛を出すなど繁栄した。

 平安時代のころより、尾張国一宮と称された。
 当社について、阿仏尼の『十六夜日記』に「一の宮とい
 ふ社を過ぐる」と記述がある。同市内の大神神社も尾張
 国一宮を称する。

 戦国時代、のちに森氏に仕えた関成政は、織田信長から
 正倉院の名香蘭奢待の破片を拝領し、当社に奉納した。


 

 真清田神社(ますみだじんじゃ)は、愛知県一宮市にある神
 社。式内社(名神大社)、尾張国一宮。旧社格は国幣中社で
 現在は神社本庁の別表神社。
no.30

 伊奈波神社 
 (いなばじんじゃ)

  岐阜県岐阜市

















 

 ◇ 御祭神

   五十瓊敷入彦命
(いにしきいりひこのみこと)
   垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神

 ◇ 配祀
 ・妃の淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)
 ・母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
 ・外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)
 ・臣下の物部十千根命(もののべのとちねのみこと)
  これらの神を伊奈波大神と総称する。

 社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平
 定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒
 言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれた
 という。

 また、社伝によると、景行天皇14年、武内宿禰が稲葉山
 北西の椿原(現在の岐阜公園内の丸山)に五十瓊敷入彦命
 を祀ったのに始まるとされる。壬申の乱の際に天武天皇が
 当社に戦勝を祈願したという説がある。


 
 
伊奈波神社(いなばじんじゃ)は、岐阜県岐阜市にある神社
 である。美濃国三宮で、旧社格は国幣小社。式内社「美濃国
 厚見郡 物部神社」の論社である。

 天文8年、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり
 現在地に遷座した。この際、その地にあった物部十千根命を
 祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。 以降も
 岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けた。明治6年に県社に
 列格し、昭和14年に国幣小社に昇格した。

 『延喜式神名帳』では、美濃国厚見郡の神社として「伊奈波
 神社」の社名は記されていないが小社として「物部神社」の
 社名があり、これが当社に合祀された物部神社であるとされ
 る。あるいは、当社自体が式内・物部神社であるとする説も
 ある。『美濃国神名帳』には「正一位 伊奈波大神」「従五位
 下 物部明神」と記載されている。


no.31

 
伊勢神宮

 三重県伊勢市














  
 ◇ 御祭神

 主祭神は以下の2柱。
 
 皇大神宮:内宮(ないくう)
 天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ)
  一般には天照大御神として知られる


 豊受大神宮:外宮(げくう)
 豊受大御神 (とようけのおおみかみ)





 
  
 伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御
 神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を
 祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮
 (ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
 内宮と外宮は離れている為、観光で内宮のみ参拝の人が多い
 が、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが、正しいと
 されている

 伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。
 正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)。
 他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり親
 しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。
 神社本庁の本宗(ほんそう)である。

 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与された事のな
 い神社の一社。 古代においては宇佐神宮、中世においては
 石清水八幡宮と共に二所宗廟の1つとされた。 明治時代から
 戦前までの近代社格制度においては社格の対象外とされた。

no.32
 
 椿大神社 

  (つばきおおかみやしろ)

 三重県鈴鹿市 








 ◇ 御祭神 

 ・主祭神 猿田彦大神
 ・相殿  瓊瓊杵尊 
      栲幡千千姫命 - 瓊瓊杵尊の母神
 ・配祀  天之鈿女命 猿田彦大神の妻神
      木花咲耶姫命
 ・前座  行満大明神


 椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、三重県鈴鹿市に ある
  神社。式内社、伊勢国一宮。
  旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
  猿田彦大本宮とも呼ばれる。
  猿田彦大神を祀る神社の総本社とされる。



no.33

 多度大社 


 三重県桑名市 



















 ◇ 御祭神  

  
天津彦根命(天照天津彦根命:天照大神の第3子)

 天津彦根命は当地の豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖
 神である。 天津彦根命が天照大神の御子神であることや
 参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が
 深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片
 参り」とも詠われた。また俗に、北伊勢大神宮・多度大神
 宮などとも云われた。境内には天津彦根命の子である天目
 一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮と共に「多度
 両宮」と称される。大神の第3子)を主祭神とする。
 天津彦根命は、当地の豪族・桑名首(くわなのおびと)の
 祖神である。 天津彦根命が天照大神の御子神である事や
 や参詣のための街道沿いにあることから、伊勢神宮との関
 係が深く、お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば
 片参2枚」とも詠われた。また俗に、北伊勢大神宮・多度
 大神宮などとも云われた。境内には天津彦根命の子である
 天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに
 「多度両宮」と称される。

 
 多度大社
(たどたいしゃ)は三重県桑名市多度町多度にある
 神社である。式内社(名神大)で、旧社格は国幣大社。


















 
no.34
 
 
橿原神宮 
  (かしはら じんぐう)

  奈良県橿原市













 御祭神

   神武天皇 












 
 
 記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀る為、神武
 天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神
 宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明
 治23年4月2日に官幣大社として創建された。

 昭和15年には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で
 紀元2600年奉祝式典が挙行された。
 この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族
 の参拝がある。

 近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで
 初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと
 紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭
 および奉祝行事「春の神武祭」が行われる4月3日にも多くの
 参拝者が訪れる。

   官幣大社・勅祭社・別表神社


no.35

 
山上神宮
 (いそのかみじんぐう)

  奈良県天理市












 

 
◇ 御祭神
 主祭神
  布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)        神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊
 配神
 布留御魂大神 (ふるのみたま)十種神宝に宿る神霊  
 布都斯魂大神 (ふつしみたま)               天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊  
 宇摩志麻治命 (うましまじのみこと)
 
五十瓊敷命 (いにしきのみこと)白河天皇
 市川臣命 (いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命        (孝昭天皇皇子)後裔で、当社社家の祖

 

 石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社
 式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。










no.36
 
 
春日大社 

 奈良県奈良市春日野町























 ◇ 御祭神 

 主祭神は以下の4柱。
 
総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
 
 ・武甕槌命 - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
 ・経津主命 - 同上(下総国香取の神)
 ・天児屋根命 - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
 ・比売神 - 天児屋根命の妻(同上)

 奈良・平城京に遷都された和銅3年、藤原不比等が藤原
 氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山
 (みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる
 とする説もあるが、社伝では、神護景雲2年に藤原永手が
 鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と枚岡神社に祀られて
 いた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社
 殿を造営したのをもって創祀としている。但し、近年の
 境内の発掘調査により、神護景雲以前より、この地で祭
 祀が行われていた可能性も出てきている。


 1871年(明治4年)に春日神社に改称し、官幣大社に
 列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に
 改称した。



 

 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(後の藤原氏)の
 氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある
 神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社
 (上七社)の一社。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
 神紋は「下がり藤」。全国に約一万社ある春日神社の総本
 社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから
 鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化
 財」の1つとして登録されている。

 藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には
 官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は
 賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭と共に三勅祭の
 一つとされる。850年(嘉祥3年)には武甕槌命・経津主命
 が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位
 である正一位の神階を授かった。 『延喜式神名帳』には
 「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列
 し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。

 藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、
 813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した
 際その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本
 地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺
 は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒ら
 による強訴がたびたび行われるようになったが、その手段
 として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて
 上洛する「神木動座」があった。

no.37

 大神神社
 (おおみわじんじゃ)
  
 奈良県桜井市三輪






















 
◇ 御祭神


  主祭神
 大物主大神
     (おおものぬしのおおかみ、
倭大物主櫛甕玉命)

 ◇ 配神
  ・ 大己貴神
(おおなむちのかみ)
   ・
少彦名神 (すくなひこなのかみ)
 
 大物主神は蛇神であると考えられ水神または雷神としての
 性格を合わせ持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)等
 の神として 特段篤い信仰を集めている。また、日本国の
 守護神(軍神)、氏族神 (太田田根子の祖神)である一方
 で祟りなす強力な神(霊異なる神) ともされている。
 大物主神にまつわる伝承は多いが、その中には、当社の付
 近にある箸墓古墳と関連するものもある。

 全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されてお
 り、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)
 にも記述がある。
 その分布は山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・
 周防に多い。吉備国を征服する時代孝霊天皇御代に分祀さ
 れた。


 
 大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社
 式内社(名神大社)大和国一宮二十二社(中七社)の一社。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 別称として「三輪明神」、「三輪神社」とも呼ばれる。

 神武東征以前より先住豪族の崇敬が篤皇室が外戚を結んだ事から、
 族長によって磐座祭祀が営まれ日本最古の神社の一つで、神聖な
 信仰の場であったと考えられる。
 旧来は大神大物主神社と呼ばれた。 近年、大和七福八宝めぐり
 (三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文
 殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺の1つに数えられている。
 平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)の三つの大きな神宮寺があっ
 たが、現存する平等寺以外は明治時代廃仏毀釈で廃絶した。
 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、
 江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として、建立された
 拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)
 の形態を残している。 拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つ
 を1つに組み合わせた特異な形式のものである。
 例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に
 が吊るされる、これが各地の 造り酒屋へと伝わった。




no.38

 熊野三山の一つ

 
熊野那智大社 

 和歌山県東牟婁郡
  那智勝浦町


























 ◇ 御祭神
    上社 第四殿に鎮座する
    「熊野夫須美大神」を主祭神とする

      社 殿        御祭神
 上五社  第一殿  瀧宮       大己貴命  
      第二殿  證証殿      家津御子大神 
      第三殿  中御前      御子速玉大神
     
第四殿 西御前     熊野夫須美大神
      第五殿  若宮       天照大神


 中四社 第六殿に八社殿(中四社・下四社併せて)
          禅児宮     忍穂耳尊
          聖宮      瓊々杵尊  
          児宮      彦火火出見尊 
          子守宮     鵜葺草葺不合命 

 下四社 第六殿に八社殿(中四社・下四社併せて)
         一万宮・十万宮  国狭槌尊
         米持金剛     泥土煮尊
         飛行夜叉     大戸道尊
         勧請十五所    面足尊

 熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、熊野三山の一つ。
 熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野
 夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また、
 熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。

 熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産
 『紀伊山地の霊場と参詣道』平成16年7月登録の構成資産
 の一部となっている。

 熊野三山の成立について
 『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃に
 インドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、
 また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられ
 るが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも
 熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異な
 り、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿
 が創建されたのは他の二社よりも後である。

 一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地
 だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本
 で創建されたともいう。

 祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命(事解之男神)と
 する説がある。その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる
 が、熊野久須毘命とする説もある。
 大同元年の『新抄格勅符抄』には766年(天平神護2年)
 熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述
 があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。 しかし、
 その後は貞観元年1月27日、同年5月28日、貞観5年3月2日
 の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上に昇階した事に
 関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美)
 の記述がない。延長5年延喜式神名帳の牟婁郡6座中にも
 熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。

 一方、永観2年の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神
 とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。
 本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年9月4日
 の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これ迄には
 三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考え
 られる。また『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日
 条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地
 に遷祀されていたとされる。

no.39

 熊野三山の一つ

 
熊野速玉大社 

 和歌山県新宮市新宮






















 
◇ 御祭神
    熊野速玉大神
(くまのはやたまのおおかみ)        熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)
    を主祭神とする。

 上四社 第一殿  結宮  熊野夫須美大神
     第二殿  速玉宮 熊野速玉大神
     第三殿  証誠殿 家津美御子大神
     第四殿  若宮  天照大神
          神倉宮 高倉下命

 中四社 第五殿  禅児宮 天忍穂耳尊
     第六殿  聖宮  瓊々杵尊
     第七殿  児宮  彦火火出見尊
     第八殿  子守宮 鵜葺草葺不合命

 下四社 第九殿  一万宮 国狭槌尊 
          十万宮 豊斟渟尊

     第十殿  勧請宮 泥土煮尊
     第十一殿 飛行宮 大戸道尊
     第十二殿 米持宮 面足尊

 摂末社 - 八咫烏神社、神倉神社、熊野稲荷神社
 手力男神社、新宮神社、熊野恵比寿神社、奥御

 式内社(大)・官幣大社・別表神社
 創建年代は景行天皇58年と伝えられるが、多くは不詳。
 熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野
 本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はや
 たまのを)とされる。又、この速玉之男神の名から神社名が
 つけられたといわれる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされ
 る。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、
 いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。
 神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
 古代、穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、穂積氏
 (藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。

 1871年
  近代社格制度のもとで熊野速玉神社として県社に 列格。

 1883年(明治16年)- 打ち上げ花火が原因で社殿が全焼。
 1915年(大正4年 - 官幣大社に昇格。
 1967年(昭和42年)- 社殿を再建。
 2004年(平成16年)7月1日 - 「紀伊山地の霊場と参詣道」
  の一部としてユネスコの世界遺産に登録。








no.40

 熊野三山の一つ
 
 
熊野本宮大社
 (くまのほんぐうたいしゃ)

  和歌山県田辺市本宮町













 ◇ 御祭神

    家都美御子大神
(けつみみこのおおかみ、
     
熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉
    熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉
    を主祭神とする。











 

 明治4年に熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)として国幣中
 社に列格し、1915年に官幣大社に昇格した。

 現在の社地は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水
 で流されるまで社地は熊野川の中州にあった。 明治以後、山
 林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ
 大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。
 現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ
 日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート
 造平成12年完成)が建っている

「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から
 飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、
 須佐之男命とされるが、その素性は不明である。
 太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であ
 るという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、
 または木の神とする説などがある。

no.41

 熊野三山の一つ
 
 神倉神社
 
かみくらじんじゃ)

 和歌山県新宮市

























 

 ◇ 御祭神

  
天照大神、高倉下命

 磐座信仰の社
 神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。
 新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉
 山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)
 に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。
 山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉
 積み石段538段を登らなければならない。
 山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキ
 ガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体と
 して祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われ
 る岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が
 多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造
 品が出土している事から、神倉神社の起源は磐座信仰から
 発したと考えられている。 
 神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられている
 が、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。
 古事記・日本書紀によれば、神倉山は、神武天皇が東征の
 際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。
 この時、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ
 これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で
 軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし
 「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と
 神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山
 と結びつける所説は 鎌倉時代以降に現れたものと考えら
 れている。
 

 神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山
 県新宮市の神社。熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。
 境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊
 山地の霊場と参詣道」の一部である。 


 神倉山の石段
 神倉山の石段 附 「下馬」標石は、神倉山山麓から山上境内へ
 続く石段、および神倉神社入口にかかる太鼓橋の傍らに立つ
 標石である。石段は538段を算し、自然石(花崗岩)を組み合
 わせて築かれたもので、幅は平均約4メートル、高さと奥行き
 は一定ではないが、おおよそ高さ25センチメートル、奥行き
 は30から40センチメートルである。
  一般には建久4年(1193年)に源頼朝が寄進したと伝えられ
 るが、わずかに『熊野年代記』の記事がその旨を伝えるに過
 ぎない。「下馬」標石は寛文12年銘のあるもので、黒雲母花
 崗斑岩製高さ1.59メートル、幅43センチメートル、厚さ17セ
 ンチ、同じ材質で地上高26センチメートル、幅80センチメー
 トルの台石上に立っている。
  刻銘によれば、奥州は南部志和郡の人物が、子孫繁栄を祈念
 して、熊野参詣7度を達成したことを記念したものとあり、
 奥州の熊野信仰を今日に伝えている。



no.42
 
 賀茂別雷神社
 (かもわけいかづちじんじゃ)
 (上賀茂神社) 


 京都府京都市北区上賀茂






 ◇ 御祭神

 
  賀茂別雷大神
(かもわけいかづちのおおかみ)
賀茂氏の祖神。
「別雷」は「若雷」の意味で若々しい力に満ちた雷
(神鳴り)の神という意味である。


 

 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区
 にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。
 式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の
 一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録
 されている。




no.43

 
下賀茂神社

  京都府京都市左京区























 ◇ 御祭神

 東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
    賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
 
 西殿:賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
    玉依姫命の父

 京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇
 の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。又、崇神天皇7年
 に神社の瑞垣の修造の記録がある為、この頃の創建とする
 説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置され
 たともされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷
 の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受ける
 ようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階
 を受け、賀茂祭は勅祭とされた。
 『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」
 として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の
 幣帛に預ると記載される。
 弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ
 皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。平安時代中期以降
 21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮
 を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定された為、現在は
 一部を修復するのみである。


 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区に
 ある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。
 式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の
 一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして
 登録されている。

 賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る
 神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。
 両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。

 賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、玉依姫命
 の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれ
 る。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
 境内に糺の森(ただすのもり)、みたらし池がある。









no.44

 
平安神宮 

  京都府京都市左京区

























 
◇ 御祭神
  
  第五十代   桓武天皇 
 
  第百二十一代 孝明天皇

 1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念
 して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安
 京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実
 際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するよう
 に計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であっ
 た岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。
 博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇で
 あった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。
 皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で
 過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加
 えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与
 されている。

 1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)
 が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。
 ただし、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている。
 創建が比較的新しかった事から、当時はこれらの建物は
 文化財指定を受けていなかったため、再建の為の国から
 の補助金が見込めなかった。しかし、全国からの募金に
 より、本殿や内拝殿は3年後に再建された。この火災は
 後に日本の新左翼活動家加藤三郎の犯行と判明した

 平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区に在
 る神社。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表
 神社。

 1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して
 京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、平安京遷都
 当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏
 があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが
 用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の
 5の規模で復元された。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷
 都を行った天皇であった、第50代桓武天皇を祀る神社として
 創祀された。 皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に
 平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神
 に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与
 されている。

 1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)
 が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。但し外拝
 殿である大極殿は延焼をまぬがれている。 創建が比較的新
 しかったことから、当時はこれらの建物は文化財指定を受
 けていなかった為、再建のための国からの補助金が見込め
 なかった。しかし、全国からの募金により本殿や内拝殿は
 3年後に再建された。 この火災は、後に日本の新左翼活動
 家の犯行と判明した。


no.45
 
 八坂神社

 京都府京都市























 ◇ 御祭神
 ・中御座:素戔嗚尊(すさのおのみこと)

 ・東御座:櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)            素戔嗚尊の妻

 ・西御座:八柱御子神 やはしらのみこがみ)
  素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、
   大屋比売神、 抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、
   大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称


 ◇ 配神
 ・東御座に同座:神大市比売命、佐美良比売命
          いずれも素戔嗚尊の妻
 ・西御座に御座:稲田宮主須賀之八耳神


 明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は
 以下の3柱であった

  • 中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)
  • 東の座:八王子 (はちおうじ)
  • 西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)

 八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町
 にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社
 で、現在は神社本庁の別表神社。

 全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社の総本
 社(約2,300社)である。通称として祇園さんとも呼ばれる。
 7月の祇園祭(祇園会)で知られる。

 牛頭天王は起源不詳の習合神で、祇園精舎を守護するとされ
 日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王
 の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視
 された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(と
 しとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても
 信仰された。 八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の
 八将神に比定された。

 また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどく
 けのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王
 の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる
 または、ヤマタノオロチが変化したものとも考えられている。
 慶応4年(1868年)の神仏分離令により、元々「祇園神社」
 「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれていたものが、「八坂神
 社」と改められた。



no.46

 
松尾大社

  京都府京都市西京区


























 

 ◇ 御祭神

  ・大山咋神
  ・中津島姫命























 
 松尾大社(まつのおたいしゃ)は、京都市西京区にある神社。
 旧称は松尾神社。通称は「まつおたいしゃ」。
 式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は
 官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大
 杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏
 が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とし
 た。大山咋神については、『古事記』に「亦の名は山末之大
 主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に
 坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂さ
 れたころには有力な神とされていたことがわかる。

 大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみき
 とり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を
 移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の
 世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。

 また秦一族は酒造技術に優れ(同社御由緒)、狂言「福の神」
 によると、松尾神は「神々の酒奉行である」とされて酒造
 関係者の信仰を集める。同社の神事には「福の神」が奉納
 される。平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬される
 ようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。
 『延喜式神名帳』では「山城国葛野郡 松尾神社二座」と
 して名神大社に列する。また、二十二社上七社の一社とも
 なった。
  近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に
 松尾神社として官幣大社に列格し、戦後は別表神社となっ
 た。昭和25年(1950年)に松尾大社に改称。

no.47
 
 北野天満宮

  京都府京都市上京区






























 ◇ 御祭神
  ・菅原道真公
 ◇ 相殿神
  ・中将殿 - 菅原高視(道真長子)
  ・吉祥女 - 道真正室を指す

 天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉に
 よる北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」
 がある。

 江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の
 神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の
 分霊が祀られた。

 1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野
 神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的
 には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。
 旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家
 管理を脱したあとである。













  北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある
 神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格
 は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県の太宰
 府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧
 請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの
 信仰を集めている。

 延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府
 で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真
 の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられ
 た。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位
 を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住
 む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、
 5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣が
 あった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地
 の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
 後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚
 であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大
 な社殿に作り直されたと言う。

 永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から
 「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)に
 は正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。 以降も朝廷
 から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。

 中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家など
 からも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所として
 いた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年
 (1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ち
 てしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。

no.48

 
伏見稲荷大社

 京都府京都市 













 

 ◇ 御祭神
   稲荷大神
   祭神は以下の5柱を含めて、稲荷大神とする。

 ◇ 主祭神
   宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
 ◇ 配神
   佐田彦大神
   大宮能売大神
   田中大神
   四大神 (しのおおかみ)
 
  稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛
  ・交通安全といったご利益があるとされる。
 

 伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区に
 ある神社。旧称は稲荷神社。
 式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。
 稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

 全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。
 初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国
 内第4位〔2010年〕)。現存する旧社家は大西家。

 外国人観光客からも観光地として人気があり、「トリップ
 アドバイザー(英語版)
」による2014年の「外国人に人気の
 日本の観光スポット」調査では、1位を獲得している


no.49

 貴船神社 
 (きふねじんじゃ)

 京都府京都市左京区
































 
◇ 御祭神
  
   高龗神 (たかおかみのかみ)

 水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座と
 されるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の
 神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人
 々から信仰を集めている。古来より、晴れを願うときに
 は白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、実際
 の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納された事もあり
 このことから絵馬が発祥したとも言われる。また、縁結
 びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による
 人気もあり、若いカップルや女性で賑わっている。その
 一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑
 の刻参りでも有名である。ただし「丑の年の丑の月の丑
 の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒
 から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の
 方法であり、呪咀が本来の意味では無い。
 平安時代には丑の刻であるかどうかは不明だが貴船神社
 に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に
 本来の意味が変質したものと思われる













 
 貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社。
 式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。
 神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。
 旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船
 「きぶね」とは違い、水の神様であることから濁らず「きふ
 ね」という。

 創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建
 としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が
 黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し
 水神を祭ったのに始まると伝えている。
 社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御
 船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたもの
 と伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になっ
 たともいう。

 白鳳6年(666年)に、最も古い社殿造替えの記録がある。
 日本後紀に、延暦15年(796年)、東寺の造営の任に当た
 っていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を
 建立するよう託宣したと記されている。

 『延喜式神名帳』には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として
 記載され、名神大社に列している。 後に二十二社の一社と
 され、保延6年(1140年)に最高位の正一位の神階を授け
 られている。

 永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜
 3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して
 元の鎮座地は奥宮とした。当社は長らく賀茂別雷神社
 (上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の
 社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、
 それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってよう
 やく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の
 祭神である賀茂別雷命も祭神としていた。


no.50

 石清水八幡宮
(いわしみずはちまんぐう)

 愛称:やわたのはちまんさん

 京都府八幡市
 
























 
 ◇ 御祭神

 中御前:誉田別命(ほんだわけのみこと)
     第15代応神天皇の本名。
  
 西御前:比咩大神(ひめおおかみ)
     宗像三女神=以下の三柱の総称
      多紀理毘売命(たぎりびめ)                市寸島姫命(いちきしまひめ)                 多岐津比売命(たぎつひめ))

 東御前:息長 帯姫命(おきながたらしひめのみこと)      神功皇后の本名。

  以上の3神を総称して「八幡三所大神(八幡大神)」という。















 京都府八幡市にある神社、旧称は男山八幡宮。
 二十二社(上七社)の一社で、伊勢神宮とともに二所宗廟の
 一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
 宮中の四方拝で遥拝される一社。
 三重の伊勢神宮・京都の賀茂神社、奈良の春日大社とともに
 日本三社の一社。大分の宇佐神宮・福岡の筥崎宮(又は鎌倉
 の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮の一社。
 日本三大厄除の一社
 

 当社は平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐
 市)から勧請されたもので、京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、
 標高143m)山上に鎮座する。天皇家からは遠国の宇佐神宮
 に代わり二所宗廟の一つとして崇敬された。また、公家には
 京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門
 (北東)の延暦寺とともに重要視された。
 武家では特に源氏が武神として信仰し、源氏の広がりと共に
 源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鶴岡八幡宮など
 当社から勧請された八幡宮が各地に建立された。

 創建より、境内の護国寺と一体になる宮寺形式をとった。
 往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、『徒然草』に
 は山麓を当社と勘違いした話がある。 明治維新の神仏分離
 以後は仏式を排除した。仏式であった放生会は「石清水祭」
 と名を変え、葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の一つとさ
 れる。御利益は厄除開運、必勝、商売繁盛、家内安全などと
 され、全国から参拝者が足を運ぶ。

 国の史跡である境内は、山上の本宮のある上院と、山麓の頓
 宮や高良神社のある下院とに分けられる。本殿をはじめ建造
 物16棟等は国重要文化財に指定。

no.51

 住吉大社 

 大阪府大阪市住吉区住吉

















 ◇ 御祭神

 主祭神は住吉大神、以下の4柱
 底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命
 海の神(航海の神、また和歌の神とされる)

・第一本宮
   底筒男命 (そこつつのをのみこと)
・第二本宮
   中筒男命 (なかつつのをのみこと)
・第三本宮
   表筒男命 (うはつつのをのみこと)
・第四本宮
   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
    
- 神功皇后 (じんぐうこうごう)に同じ。

 境内の奥から、第一・第二・第三本宮が、縦(東西)に並び
 第三本宮の向かって、右(南)に第四本宮がある。




 式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一社。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 全国に約2,300社ある住吉神社の総本社である他、下関の住吉神
 社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の一社。また毎年
 初詣の参拝者の多さでも全国的に有名である。

 別称として「住吉大神宮(すみよしのおおがみのみや)」ともい
 い、当社で授与される神札には「住吉大神宮」と書かれている。
 また、地元では「すみよしさん」または「すみよっさん」と呼ば
 れている。







no.52

 
阿部野神社


  大阪府大阪市阿倍野区

 ◇ 御祭神

  北畠顕家 北畠親房 
 南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親
 房を祀る。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社・
 別表神社である。

no.53

 
坐摩神社
 (いかすりじんじゃ)
 
 大阪府大阪市中央区












 ◇ 御祭神は以下の5柱で
    「坐摩神」と総称している

 ・生井神 (いくゐのかみ)
       
井水の神(生命力のある井戸水の神)
 ・福井神 (さくゐのかみ)
       
井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
 ・綱長井神 (つながゐのかみ)
    
   井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわ        れ、深く清らかな井戸水の神)
 ・波比祇神 (はひきのかみ)
      竃神(屋敷神 庭の神)
 ・阿須波神 (はすはのかみ)
      竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)  

 
 式内社(大社)で、摂津国一宮を称する。
 旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。














no.54

 生國魂神社

 (いくくにたまじんじゃ)

 大阪府大阪市天王寺区






 ◇ 御祭神
   生島
(いくしま)大神足島(たるしま)
 
 ◇ 相殿に大物主大神を祀る。

 ※主祭神二神は宮中でも生島巫(いくしまのみかんなぎ)
 によって祀られ、歴代の天皇即位の際には国家の祭祀と
 して二神を祀る八十島(やそしま)祭が行われ
た。
 

 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は、大阪府大阪市天王
 寺区にある神社。式内社で、旧大阪府大阪市天王寺区社格は
 官幣大社。難波大社(なにわのおおやしろ)ともいう。
 地元では生玉(いくたま)さんの通称で親しまれている。
no.55

 
生田神社 

 兵庫県神戸市中央区 





 ◇ 御祭神

   稚日女尊(わかひるめのみこと)
  「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名
   とも妹とも和魂であるとも言われる。 

 
 兵庫県神戸市にある神社である。
 式内社(名神大)で、旧社格は官幣中社。同じ兵庫県内の廣田
 神社、長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する。かつて
 現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」とい
 う地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれて
 おり、初詣時期にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶
 えな
い。 

no.56

 
湊川神社

 兵庫県神戸市中央区 




















  ◇ 御祭神
  贈正一位橘朝臣(楠木)正成公

  ◇ 配祀神:贈従二位楠木正行卿                贈正三位楠木正季卿 
  菊池武吉命・江田高次命・伊藤義知命・箕浦朝房命
  岡田友治命・矢尾正春命・和田正隆命・神宮寺正師命
  橋本正員命・冨田正武命・恵美正遠命・河原正次命
  宇佐美正安命・三石行隆命・安西正光命・南江正忠
命 

◇ 本殿合祀
  摂社 甘南備神社
     (祭神:大楠公御夫人滋子刀自命)









 兵庫県神戸市中央区多聞通にある楠木正成を祭る神社。
 地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれ
 ている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社であ
 る。 
 ◇ 歴史
 幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しよ
 うとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。
 特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士
 が彼の崇拝者となり、その祭祀を行った。明治維新の意義は
 公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い
 主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業という
 よりはむしろ建武の新政を理想として行われたものであった。
 それは江戸時代に儒学の興隆によって興った南朝正統論に起
 源するものである。
明治維新が実現すると、楠木正成は、
 皇室に忠義を尽くした第一の功臣として顕彰され、神社が建
 てられることとなった。神社の創建には薩摩藩、尾張藩水戸
 藩などが主導権を争ったが、最終的に神社は国家が祀るもの
 として、政府が主導して建てられた。
 湊川神社の創建は、これに続く南朝関連の人物を祀る神社創
 建の嚆矢となり、別格官幣社に代表される、功績のあった人
 物を神社に祀る風習のさきがけとなるなど、近代神社史上、
 無視できない重要な位置を占めることとなる。
 

no.57

 長田神社
 
 兵庫県神戸市長田区 








 ◇ 御祭神 

   事代主神
   於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神
   (あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつの
    ことしろぬしのかみ)


 ◇ 本殿瑞垣内に天照大御神、応神天皇を祀る。
 長田神社(ながたじんじゃ)は、神戸市に位置する神社。
 旧社格は官幣中社。廣田神社、生田神社と共に神功皇后以来
 の歴史を持つ名社とされる。生田神社、湊川神社と共に神戸
 を代表する神社の一つ。
 


no.58

 廣田神社 
 
 兵庫県西宮市大社町







 
 ◇ 御祭神
 
 天照大神荒魂 (撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

 (つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)
  ※ 伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と御同体
 ◇ 脇殿神
  ・住吉大神 ・八幡大神 ・武御名方大神
  ・高皇産霊神

 兵庫県西宮市にある神社。式内社(名神大社)、二十二社
 (下八社)の一社。 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の
 別表神社

no.59

 吉備津神社
 (きびつじんじゃ)

 岡山県岡山市北区


 ◇ 御祭神

 
◇ 大吉備津彦命


 備中国一宮 官幣中社 別表神社 式内社(名神大社)
 本殿、拝殿は国宝 南随神門、北随神門、御釜殿、木造獅子
 狛犬は国の重要文化財、回廊、行道面、大太刀、高麗版一切経
 紙本墨書連歌は県指定有形文化財、宮内踊は県指定無形民俗文
 化財である

no.60 
 
 
金毘羅宮
 (ことひらぐう)

  愛称:こんぴらさん

 香川県仲多度郡琴平町









 
 
◇ 御祭神


  ・大物主命  ・ 崇徳天皇

 『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行ってい
 た少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうや
 ってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に
 海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に
 自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」
 と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)
 なり」と答えたという。
 『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神
 神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として
 祀ったとある。


 
 金刀比羅宮は香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する
 神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、
 まれに琴平宮とも書かれる。明治維新の神仏分離廃仏毀釈が実
 施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり神仏習合で
 象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。現在は神社本庁包括に属する
 別表神社、宗教法人 金刀比羅本教の総本部。
 全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮でもある。

 社格は、国幣中社・別表神社




no.61

 
厳島神社
 (いつくしまじんじゃ)
 広島県廿日市市














 ◇ 御祭神
  
  祭神は以下の3柱で宗像三女神と総称される
  ・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
  ・田心姫命
(たごりひめのみこと)
  ・湍津姫命
(たぎつひめのみこと)









 
 厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島
 (宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。
 旧社格は官幣中社で現在は神社本庁の別表神社。

 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある
 厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島
 神社」として登録されている。

 社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐
 伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を
 創建したことに始まるとされる。

 当社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)
 島」という語源のように、古代から島そのものが神として
 信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)
 山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとさ
 れる

no.62

 出雲大社

 島根県出雲市




















































 ◇ 御祭神
  
   大国主大神

 創建
 祖出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が
  語られている。以下はその主なものである。


  ・大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、
   皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く
  立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりまし
  ょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)
  の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。
  (『古事記』)


  ・高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処と
   なる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もあ
   る縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天
   穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)


  ・所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集
   って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)


  ・神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原
   の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と
   述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)


  ・崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)
  (建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持
   って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを
   見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)
   を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当
   主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根
   は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。
   (『日本書紀』)

  ・垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれなが
   らに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟
   りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に
   遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれる
   ようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を
   再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。『古事記』

  ・崇659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」
   を修造させた。(『日本書紀』)

  伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言
  えることは、天津神(または天皇の命によって、国津
  神である大国主神の宮が建てられたということであり、
  その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代
  における国家的な事業として行われたものであることが
  うかがえる。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天
  皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされてい
  る。

 
 
 式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。
 現在は神社本庁包括に属する別表神社宗教法人出雲大社教の
 宗祠。式内社(名神大)出雲国一宮 幣大社 勅祭社 別表
 神社

 正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に
 「いづもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝
 礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」
 を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命
 を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。
 現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰
 府天満宮を経て出雲大社禰宜 → 権宮司と昇格すると、平成
 14年宮司に就任し翌年、神社本庁より神職身分特級を拝受し
 ている。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文
 輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花
 角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、
 皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続
 けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際し
 て、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が
 公開されることがある。


















no.63

 
筥崎宮
(はこざきはちまんぐう)

 福岡県福岡市  



 ◇ 御祭神  応神天皇
 ◇ 配祀神  神功皇后 玉依姫命    
    
 
 式内社(名神大社)、筑前国一宮。
 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁別表神社。
 別称として筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれ
 る。京都府八幡市石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮と
 ともに日本三大八幡宮の一つとされている。  
no.64

 大宰府天満宮
 (だざいふてんまんぐう)

 福岡県太宰府市






 ◇ 御祭神
  
  菅原道真公
 (学問の神として人口に膾炙している)




 

 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市
 にある神社。
 旧社格は官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。
 菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一
 つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全
 国から、毎年200万人以上の参詣者がある。 現在、京都の
 北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の
 霊廟として篤く信仰され ている。 


no.65

 
八幡総本宮
   宇佐神宮
 (うさじんぐう)
 
  大分県宇佐市














 ◇ 御祭神
   八幡大神・比売大神・神功皇后

 御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年
 (欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったと
 いわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい
 国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に
 御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮
 の創建です。

 宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神
 代に比売大神が宇佐嶋に降臨されたと『日本書紀』に記され
 ています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、
 地主神として祀られ崇敬されてきました。
 八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により
 二之御殿が造立され、宇佐の国造は比売大神をお祀りしま
 した。



 宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。
 式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。
 旧社格は官幣大社 で現在は神社本庁の別表神社。全国に
 約44,000社ある八幡宮の総 本社である。石清水八幡宮・
 筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに 日本三大八幡宮の
 一つ。通称として宇佐八幡・宇佐八幡宮とも呼ばれる。
 八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされて
 きました。全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多
 く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
 宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
no.66

 青島神社
 
  宮崎県宮崎市青島




 ◇ 御祭神
  ・天津日高彦火火出見命
  ・豊玉姫命
  ・塩筒大神 

 宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社
 で、旧社格は村社。現在は神社本庁の別表神社



no.67

 宮崎神社

  宮崎県宮崎市



 神日本磐余彦尊(神武天皇)=ヤマト・イワレヒ コ
 を主祭神とし、父神鸕鷀草葺不合尊と母、神玉
 依姫命の2柱を配祀する
 
 

 宮崎県宮崎市神宮(地名)にある神社である。旧社格は官幣
 大社で、現在は神社本庁の別表神社



no.68

 祐徳稲荷神社
 (ゆうとくいなりじんじゃ)

 佐賀県鹿島市古枝






















 ◇ 御祭神
  
 ・倉稲魂大神(ウガノミタマノオオカミ)
  一般に稲荷大神と呼称され、衣食住を司り生活全般の
   守護神として尊崇されておられます。


 ・大宮売大神 (オオミヤノメノオオカミ)
   天宇受売命(アメノウズメノミコト)、
   天細女命(アメノウズメノミコト)とも称され、天照大
   神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸にお隠れになった
   時に、その岩戸の前で舞を舞われた神で、技芸上達の神、
   或いは福徳円満の神として信仰されます。


 ・猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)
   天孫瓊瓊杵命(テンソンニニギノミコト)が高千穂の峯に
   天孫降臨をなさった際、その先導役をされた神で、その故
   事により水先案内の神そして交通安全の神として信仰され
   ます。

 貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬
 子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請され
 た稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰さ
 れております。

 
 祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は佐賀県鹿島市に
 ある神社である。旧社格は県社。別名鎮西日光。

 伏見稲荷大社などとともに日本三大稲荷の一つに数えられる。
 年間300万人の参詣者が訪れる。これは九州の神社では太宰
 府天満宮に次ぐ参拝客数である。衣食住、生活全般の守護神
 として、商売繁盛、家運繁栄などで尊崇されている。
  

 鹿島藩主鍋島直朝夫人で、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定
 好の娘の萬子媛(まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷
 大神の御分霊を勧請したのに始まる。
 萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。
 貞享4年、石壁山に社殿を建立し、萬子媛自ら奉仕していた
 が、宝永2年、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たし
 た。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようにな
 り、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集めた。

 明治の神仏分離により仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改
 称した。その際、萬子媛が入定した寿蔵は境内社の石壁神社
 とされ、萬子媛に「萬媛命」の神号が贈られた。

 現在の本殿は、昭和初期に建て直されたものが、昭和24年に
 焼失したあと、伊勢神宮造営局長の角南隆が設計して、昭和
 32年に再建されたもので、3代目である。
 主要建物は総漆塗りである

no.69

 鹿児島神社
    
 
  鹿児島県鹿児島市








 ◇ 御祭神 

  豊玉彦命、
  天津日高彦火々出見尊、
  豊玉姫命、
  豊受命の4柱を祭神とする。

   彦火々出見尊(山幸彦ともいう)と豊玉姫命は夫婦神、
   豊玉彦命は豊玉姫命の父神。


 鹿児島神社(かごしまじんじゃ)は鹿児島県鹿児島市に鎮座する
 神社。鹿児島県護国神社に隣りする。旧名「宇治(氏)瀬神社」。
 国史見在社で、鹿児島三社のうちの一社とされる旧県社。 





no.70

 波上宮      
  (なみのうえぐう)


 沖縄県那覇市






 ◇ 御祭神
  ・伊弉冊尊 (いざなみのみこと)
  ・速玉男尊 (はやたまをのみこと)左神座
  ・事解男尊 (ことさかをのみこと)右神座
 ◇ 相殿神
  ・竈神(火神)
  ・産土大神
  ・少彦名神(薬祖)
 

 波上宮(なみのうえぐう)は沖縄県那覇市にある神社那覇港
 を望む高台の上に位置し、「なんみんさん」として親しまれ
 てきた。
 琉球八社の一つで、全国一の宮会より、琉球国新一の宮に認
 定されている。

 ※ 琉球八社
 ・熊野神社系(7社)波上神社 天久宮 沖宮 誠名宮
   末吉宮 普天間宮 金武宮 
 ・八幡宮系(1社)安里八幡宮  
 

                                                 
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